今、学校の先生だったら…

2年生 時計の学習から見えたこと

2年生を担任したときも

2年生の算数補助に入ったときも
2年生の親を2回経験しているときも

時計の学習になるといつも思っていたことがあります。

それは

「どうしても今のタイミングだと分からない子がいる」

ということ。

時計に限らずどんな学習内容もそうなんでしょうが、
時計、お金の概念の学習のときは特に感じていました。

分からない子に分からせられない自分を正当化したかったのか
「これは私のせいではない、仕方ないことなんだ、分かるには時間がかかるんだ。」
と言い聞かせてたどり着いた思いなのかもしれませんが(笑)
 
 
今は
2年生の娘がプリントと格闘し、涙する姿を見ると、時計が分からない感覚を持っている姿は今しか見れないかもしれないと、妙に可愛く見えるときがあります。

とは言え
本人はやはり悔しいようで…

分からない、できないことを恥じる傾向があるため、なんとか解答欄を埋めるために思考を働かせているように見えてしまいます。

よくある手っ取り早く解答欄を埋められる方法を選択しているのかもしれないなと想像するような言動があったり、
とにかく早く答えを教えてほしいとうメッセージが込められた「ママ教えて」を連発したり…

きっとこのタイミングで答えが分からないといことは、本人にとって都合が良いものではないからこそ、生み出される言動なんだと思います。
 
 
学習理解とは
何なのでしょう。

準備されたタイミングで分かることが
「理解できている」
になるのでしょうか。
 
 
教員をしていた頃は
「分からせること」
に必死で、

どうやったら分かってもらえるか、
分からせる方法を考えることにずいぶん時間もエネルギーも費やしていたように思います。

今は
当時の
「分からせること」
は本当に必要だったのかなと自分のやってきたことを疑問に思うことがよくあります。

それは
子どもたちの
「学びたい知りたい分かりたい」
という思いあってのことだったのかなと。
 
 
もし今現場にいたら
分からせる方法を考える時間より

「学びたい知りたい分かりたい」

自然とやってみたくなる環境や人間関係を作る時間にエネルギーを注ぐだろうなと思います。

結果、
「いつの間にか分かるようになっていた」
のタイミングを早めることにつながるのかもしれません。

頭での機械的な理解ではなく
応用の効く本質的な理解で…
 
 
私が今
そういう環境や人間関係の中にいさせてもらっているからこそ、より感じるのかもしれません。

コーチングの学びも全く同じだなと思います。

『トラストコーチング』の組織のあり方から
保育、教育現場のあり方をよく考えるのですが、

人を「育てる」ではなく
人が自然と「育つ」現場を作りたい先生には
トラストコーチングを体感いただきたいなと思っているので、
今年度も先生方にトラストコーチングを体感いただける機会をたくさん作っていきたいと思います。

子どもの努力の跡